世の中には、ハイリスクハイリターンの話やその成功話というものは、溢れる位に存在する。
高いリスクを潜り抜け、莫大なリターンを手に入れる。確かに男なら胸躍るストーリーだろう。
だが、経営が考えるべきはリスクに対してリターン大きな案件をどこまで手がけることができるかに尽きる。
しかし、ハイリターンを望むときにリスクが高くない、という案件は殆ど世の中には転がっていない。
やはり手の届くところにあるのは、ローリスク・ミドルリターンの案件である。
世にあるサービスや商品で、こんなものになんでこんな価格がついているのだろう?と疑問に思ったことは誰でもあるだろう。
だが、「専門家が作ったのだから」「雰囲気もサービスだから」といった理由でリターンは大きくなる。
さて、こんなことを語ると、夢がないとか面白くないとかの反応が返ってくる。
絵的に面白い経営がすばらしいというならば、私はすばらしい経営者になんてならなくてもいい。

2005年3月25日

《トレンド》

私が株式投資に出会ったのが18歳のとき、思えばもう10年も昔になる。
あの時投資指針として掲げたもので、現在の行動指針になっていったものがひとつある。
それが「トレンドに乗る」というものだ。
「金融」、もう一回り大きく捕らえて「経済」にかかる全ての事象にはトレンドが存在している。
より長く、より広く、より平準化されたものほど信頼性が高い。
この波に乗るのだ。
これを踏まえたならば、「どんなにうまくいっているものでもトレンドであればチェンジするときがくる。」
「どんな成功体験であっても、それが通用しなくなるトレンドはやってくる。」という発想は自然なものといえるだろう。
さて、次に重要なことは、「ではトレンドチェンジはいつくるのか?」
という点だろう。
第一に、トレンドとは、より大きく広く捕らえれば必ず周期というものがある。この周期によってある程度予想がつく。
そして、第二に。この第二ポイントが重要なのだが、「細かくは誰もわからない」。である。
この「ターニングポイントはピンポイントでわからない。」を前提にするとストップロスや方針転換を考えるポジションとしては次の2点に限られる。
すなわち、「早めに切る・動く」か「トレンドチェンジを確認して切る・動く」かである。
どちらが良い悪いとも一概には云えないのだが、前者はトレンドが手堅い局面で、後者では不確定要素が多い局面でそれぞれ有効であるといえる。
人生であれば、当然鉄鋼株を扱うように堅いトレンドの中で予想ができるわけもないので、当然選択としては「トレンドを確認してから動く」という形になるのだ。
これは、「損は早くきり、益は長く持つ」という鉄則にもかなう。
この考えで行く限り、イノベーターではありえないし、第一人者たり得ない。
だが必ず「大きく負けない」。一発勝負でない限り、真の勝者とは沢山手を出し、何度負けていたとしても負けは小さく納め、勝ち易きに大きく勝つ者の事を云う。

2005年3月24日

《三末》

三月末というものは、いろいろな事が集中して起きる。
そして、対応が完了するまもなく次々と案件は重なるものである。
いい仕事をすることと、時間や心に余裕があることは切り離せないのだが、この時期だけはどうしてもいっぱいいっぱいになる。
当社だけではなく、関連各社須らく同様の状態でついつい関係がギクシャクしてしまうものだ。
こんなときこそ、まず自分たちから一呼吸おいた落ち着いた対応を心がける。
クッションになりえる人物や会社があれば、そこは間違いなく次の中心を占める存在になるのだろう。
本当に小さいことであるが、忙しいときはこの小さいことが煩わしい。
それでも。まず深呼吸。早く処理したい気持ちを抑えて、まずは報告・連絡から。

2005年3月23日

《交渉》

仕事というのは、突き詰めて云うと交渉の連続である。
そこに利益が絡み、思惑が絡み、良心が絡み、責任感が絡む。
誰もが満額回答を用意しているわけではないので、そこはいろいろなものと綱引きになる。
モノポリーでも同様だが、交渉の真髄は相手に喜んでもらいつつこちらにとって良い条件を引き出す。
あるいは、相手に申し訳なく思ってもらいながら、こちらの十分な条件を引き出す、というところにある。
だからこそ、目立つところでは自分から折れてあげて相手を引き立てることも重要であるし、いわゆるオマケを惜しんではならない。
そして、肝心な部分としては、「相手が苦しいと思っているところを積極的に引き受ける」ことに尽きる。
人は苦しいときに助けてもらった相手に対して否とは云いにくいものだろうし、自分を省みても苦しいときに助けてくれた人にはできるだけの事をしたいと思う。
そして、人の苦しいところがわかってあげられるような優しさが身につけば、交渉は自然にうまく進む。
利は極めにあればいい。交渉の肝は情にある。

2005年3月22日

《監督》

往年の名選手がそのまま名監督を意味するものでないことは、一般的に知られることであろう。
そう。プレーヤーとしての能力とマネジメントとしての能力とは別のものであるからだ。
プレーヤーを長く続けたからといってマネジメントができるようになったとは云えない。
こんなシンプルな関係を日本企業はずっと見誤ってきた。それが年功序列という考えだ。
考えてみればこの「無能上司生成システム」はようやく今になってヤメようという姿勢が打ち出されつつある。
さて、一方でマネジメントを司るものが現場を知らないで指揮を執ることが可能だろうか。
これは100%不可能であると言い切っていい。
管理するものが、時間や金や物であるときはまだその人物の資質でカバーできるが、こと人に限っては現場を知らないでその管理を行うことは不可能である。
年功序列はまだよい。名選手が名監督である可能性というものはいつでも残されているのだから。
この現場を知らない監督というのは、最悪である。
今、日本企業のマネジメントは名選手からのなりあがりを脱却して、現場を全く知らないド素人に託されつつある。