株式会社トライアンフは、フィールドサポート、カスタマーサポート等のITインフラ導入・保守を中心に全国展開作業を請け負うIT企業です。

株式会社トライアンフ

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春木中学は、私の母校「春木台小学校」とお隣の「音貝小学校」がくっつく。
中学に上がり、音貝からきたH氏と知り合う。私の中学時代はなんと云っても彼の影響が大きいだろう。
彼が私に持ち込んだ文化はズバリ「クイズ」と「パソコン」である。
そもそも、私が立命館を志したのがウルトラクイズで大活躍した長戸や能勢がRUQS(立命館大学クイズソサエティ)出身であったからである。
この頃は、クイズブームで各局クイズ番組が大爆発していた。雑学を集める習性はこの頃身についていったのだろう。
パソコンについては、ゲーム歴共に振り返ろう。
初めて買ったゲーム機は、セガの何かだったと思う。小学・・2年生あたりの時である。
程なくして任天堂からファミコンが登場することになるのだが、セガが壊れて動かなくなった後、なぜかMSXを買った。
つまり、これがパソコン歴の始まりである。恐らく確か、ゲーム機として買ったのだ。
今となってはあまり思い出せないのだが、カートリッジのカセットのほかに、普通のテープレコーダでロードするタイプのゲームもやっていたと思う。
「ピーピーガーッ!」と音がして、ロードに30分くらいかかるやつ。
自分でもベーマガを見て入力をしていたりしたが、プログラム知識は表面だけであった。
中学に入り、H氏がドラクエの戦闘シーンもどきを作っているのを見て、触発されウィザードリィもどきのゲームや三国志もどきのゲームを創る。
これが本格的にプログラムを組んだ最初になった。
生徒会もやった。それなりに忙しかったのだが、大きなイベントとしては二つ覚えている。
一つは雲仙普賢岳の噴火に対して募金を集めて送ったこと。何気に提案して始まったのだが、取材がきたり表彰されたりでえらい騒ぎに発展していた。
もう一つは、頭髪規制の撤廃。丸坊主だったのをやめた。これは時代の流れに乗ったのだが、実現まではそれはもう大変だった。
思えば、この中学までの期間で、自分というものの素地は殆ど出来上がっている。
一気に書いたが、中学時代と大学時代は書こうと思えばいくらでも書ける。重要なターニングポイントになっている。

小学生になる頃の記憶からは、かなり鮮明なものになっている。
恐らく、時間や日付の概念を正確に理解できたのがこの頃だからだろう。保育園の頃はイベントの順序が良くわからない。
また、母親が世界の中心であった保育園時代から、先生や友人のウエイトが増す小学校時代に入り、他人からの影響が性格に反映されていくことになる。
特に、3・5・6年生の頃教わったT先生の影響は絶大である。
青山学院の心理出身の教諭であり、国語のエキスパート。ユニークな授業方法などはご近所でも話題になって、特に彼の教え子の記憶能力はすさまじいものであった。
じゅげむに始まり、都道府県、四文字熟語、ことわざ、その他もろもろ、私自身も異常な量を暗記している。
国語の教科書でも、ぶす(附子)等は丸暗記したし、映画のグーニーズを丸暗記したりと暗記量は際限が無かった。
また、年に一度の「学習発表会」という演劇の発表会でもかなり力が入っていて、その頃から「ステージを創る」魅力に引っ張られていた。
演目は、浦島太郎と卑弥呼。両方とも主役をやったのでストーリーもせりふも殆どまだ入っている。
卑弥呼は熱演でした。「おぉー!見えるのじゃ、見えるのじゃ。2千年後のわが国が。何たることじゃ。美しき自然は壊され、人々は贅沢な暮らし。なんと、子供が子供をいじめておるではないか。誰のせいじゃ、誰のせいじゃーっ!(ばたり。)」
課外では、サッカーやったり野球をやったり、カブスカウトをやったり、アクティブな活動をしていた。
そうそう。この頃は絶対音感があって、和音を聞き分けられたり、楽譜を見るだけで歌えたりと今考えればうらやましい能力があった。
いつごろ無くなってしまったかは不明。

思い出してみる。
大学時代就職するときに「自己分析」なるものを試みた。
その際、記憶に残る昔から何をやってきたのか。そこから何を得てきたのか。
振り返ることによって、改めて「自分」というものを知覚する。
新しい一歩を踏み出そうとするとき、困難な壁にぶつかったとき、きっとそれは力になる。
記憶に残せる年齢になる前の記憶とは、余程強烈でしかも成長の過程で何度も振り返って思い出しているものとなる。
私の最古の記憶は初めて歩いたときのものだ。
小さい時に遊んだ積み木が今も残っていて、それを見るたびに思い出しているので記憶に残っているのだろう。
ちょうどその積み木は取っ手がついていて、所謂「つかまり歩き」に適している。それから手を離してよたよたと数歩。
それからはだいぶ時間が空いて、保育園に上がるまでは2・3シーンしか残っていない。どれも怪我がらみである。
滑り台から落ちて鼻をずりむいたり、アタマをぶつけて何針か縫ったり。今にして考えると、私も不注意だが母も不注意だと思う。
保育園に上がってからは、かなり記憶が定着している。時間割もわかるし、その頃歌った歌や、発表会の演技も覚えている。
私の通っていた保育園は家から遠く、必ず一箇所は大きな道路を越えなければならない。
あの頃私は、一人で家に歩いて帰るのが大きな野望の一つで、それを実行したことがある。
帰り道の事などは何も覚えていないので、きっとすんなりと帰れたのだろうが、それではこのイベントは記憶に残らないだろう。
記憶に残っているのは、終わった後のワンシーン。母親の鬼のような怒顔、これが保育園時代の野望達成の記憶として染み付いている。

2005年4月4日

《味覚》

日向家の味付けは薄味である。
幼い頃からある事情で、薄い味付けにならざるを得なかったおかけで、私の舌は明敏になったようだ。
また、子供の頃からすっぱいものと、苦いものも食べる習慣があった。
この経験がないと味覚は育たないらしく、甘いもの・辛いものだけでは不十分なのだ。
加えて、所謂「げてもの」も問題ない。おかげで留学中にも色々な国の料理を楽しむことが出来た。
ふと自分を振り返ると「まずいもの」の定義が良くわかっていない。
回りを見渡すと、人がまずいというものには幾通りかあって、ひとつは「食べなれていないもの」だ。
舌が発達した後、新しい味を自分のものとするのは人には難しい事らしい。私には未知の味をまずいと感じることが無いのでこれには当てはまらない。
次に、「過去にいやな経験をした食べ物」。よく小さいときに腐ったものを食べたりするとそれ以来その食べ物が苦手になる。ということがあるが、私にはこうした過去は無い。
次に、古くなったもの。なるほど、腐敗して可食物では無くなったものは、健康上の理由であまり口にしたくないが、加工の手段として発酵させたものであれば大丈夫である。
それに「新鮮だからおいしい」は、ものによる。同様に「天然だからおいしい」もものによる。
あとは、味ではないが食感がよくないものだろうか。ぶにぶにしていたり、かちこちだったり、ゴムみたいだったりするときにまずいと表現されることはよくあるが、それはそういうものとしてしかたが無いと思う。
ただ、飲み込めないものは苦手かもしれない。噛み切れない上にバカでかいもの。そう、たとえば巨大なこてっちゃんなんかは得意とはいえない。
同様に、「うまいもの」の定義も実は良くわかっていないが、これは悩む必要が無い。
食べながら幸せであれば、それはうまいものである。
らーめんやの親父の執念や、身内の愛情がこもっていれば、単純な食材や味付けでも至高の料理となろう。
ただ記憶に残るほどシンプルに旨い味付けというものも、今までに経験したことがある。
そして、それは私の舌の経験値として次の「旨いもの」を探す力となってくれることだろう。

インターネット広告といえば、少し前までウェブ上のポップアップかランダムに送られてくる迷惑メールかで、どちらにしても迷惑な代物であった。
各種アフェリエートが出来て手段は多様化したとはいえ現在でもユーザのためにならない広告手段というものは増え続けている。
「役に立つインターネット広告」とは、今のところ検索エンジンについているスポンサー枠くらいなものではないだろうか。
そもそも、無料・破格を売り物にしたインターネット上では、有料の仕掛けというものは難しい。
インターネットがでたての頃では、ユーザの母集団が少なくてオンラインショップなどはまったく収益に結びつかなかったし、今から出遅れて参入してもよほどのウリが無ければ成功は難しいといえる。
後からの参入が難しい主因は、広告がうまく機能していないからだろう。
スポンサーは思うような効果を挙げられず、消費者は迷惑に感じている。
一方、テレビのコマーシャルは本当に良く出来ている。コンテンツのつなぎ目に息抜きとして機能しているし、広告自体が面白い。
成熟した広告の優しさを感じさせる。ウェブ広告も形はどうであれ、少なくとも消費者に優しい存在にならなければならないだろう。

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