2005年12月3日

《リベラルアート》

仕事をする上で最も必要な能力というのは、仕事場の空気や役割が読めて必要に応じて作業の推進に役立つ事である。
一作業員からマネジメント層に至るまでその前提は変わらないが、いったいどうすればこのような能力が身に付くのだろう。
こうしたものは、データ化・マニュアル化・理論化しづらい。なぜならば人間同士が関わるものである限りタテヨコで切り分けてモデル化していく程に現実と離れていってしまう事だからだ。
しかし、あきらめてしまっては「必要な能力」を身に着ける事ができなくなる。きっとモデル化のような作業とは別のベクトルにこそ答えはあるのだろう。
私はその答えの一つが「複眼」を持つ事であると思っている。人から見た自分、世代間の見識の違い、立場による判断の差異、報道の間に透ける真実。
つまりは多角な視野を持つ事だ。そのためには幅広い「教養」が必要となる。
一分野を極める事に意義が無いとはもちろん云わない。更に云えば、最も端的にその人の能力を測るときにウリになるのは他の追随を赦さない程の差別化、つまりは「専門性」を見てしまうものである。その評価は間違っていないだろうし、「努力」がストレートに報われる形でもある。
しかし、一人の社会人として一歩を踏み出した時、「単眼」しか持たぬ者のバックボーンの薄さは隠しようが無い。一本自分の道から外れた事は分からなくなり、人の立場からモノを見ることもできないだろうし、価値が多様である事を理解するのも困難となる。
このような人物は場の空気などは読めまい。
私が考えるリベラルアートとは、大学の教える「一般教養」という狭いカテゴリとは別枠であり、可能であれば社会に触れながら関わりのある全ての事象について学ぶ「教養」である。
一般的に就職を恐れる若者には、「自分のやりたいこと」が分かっていないというよりもむしろ、圧倒的にリベラルアートが不足していると感じる。同様にルーティーン化した仕事を黙々とこなし、このままでいいのか?と漠然と不安に思っている社会人もリベラルアートを学ぶべきだと私は考える。
マネジメントは机上で理論をこねるのが仕事ではない。感じる事のできないマネージャに管理されたい人などいないのだから。