2005年9月25日

《立命館の試み》

私の出身大学は立命館大学であるが、立命館の試みは面白い。
私のコンピュータに関する基礎技術は大学のPCサポートを基盤としている。入学当時95年はインターネットが本格的に普及し始めたスタートとなる年で、WINDOWS95などのリリースもあり、学生の間でPCを持つ比率が飛躍的に高まった。立命館大学もいち早くインターネットの使えるPCの導入に踏み切り、またプロバイダとしても無料で自宅から接続できる環境を作った。そしてそのPCルームの管理や学生PCの接続サポート、更にはソフトの使用法やプログラムなどの授業の補助を、パソコンに詳しい学生に任せたのである。
私もコンピュータルームや図書室に常駐して使い方をアドバイスしたり、インターネットの使い方をアドバイスしたりしたものである。ワードエクセルやパスカルというプログラム言語の授業補助も行った。実際PC利用者の底上げにつながっていただろうし、我々のような実務経験を積めた人間にとってはありがたい試みだったと思う。
ベンチャー育成にも早くから積極的で、独立精神旺盛な学生を大量に排出している。以前紹介したドリコムなども在学中から話題になっていたし、うちの大口のクライアントの一つも立命出身のベンチャー社長である。
率直に愛校心などというとくすぐったい気もするが、卒業して数年たった今でもまだ現役在校生に知り合いがいる。この三連休に後輩と飲む機会があったのだが、そうした場所に呼んでもらえるのは嬉しいものだ。
来年は立命館もついに小学校を作るという。副校長に百マス計算などの「陰山メソッド」で有名な陰山英男教諭を招くという事だ。立命一流の話題づくりという側面ももちろんあるだろうが、小学校時代を陰山氏の教えの元で築ける意味は、学生にとって本当に大きなものになるだろう。なにより、確かな学力の支えを得る事により立命スピリッツは更に輝きを増すだろう。
さすが、我が母校である。

最近は、平常業務を皆が積極的に担当してくれているから、社長業の部分を行う事ができる。
タクティクスの権限を委譲したならば、遅々として改善されないでいるストラテジに取り組まなければならない。
黎明期ベンチャーでは、資金繰りといったような攻めの戦略についてももちろん弱いのだが、守りについては更に後手に回ってしまう。
守りの企業戦略とは、会社のカテゴリでは「労務」であろう。社会保険・厚生年金といった基本部分ですら、ベンチャーにとっては苦しい。ここの部分について歯を食いしばって頑張っていると、ついついそれより上を見る事が億劫になる。ある程度売上が確保できるようになった現在でも、リスク管理の為にコストをかけるのは、資金的に見ればやはり苦しい。しかしアクシデントとは機会を見てやってくる事は無いのだ。
忙しい事を理由にリスク管理を考えない、というのでは、経営者としては失格であろう。事実事業の拡大と共に、アクシデントによる何かしらの損失というものは現在増えてきつつある。大きな問題になった事例というのは無いが、考えられるリスクを挙げてみよう。
第一に、自動車関連のアクシデントだ。ぶつけた。動かなくなった。それ自体も仕事中に起これば問題であるし、さらにそのために怪我をしたり、仕事に穴が開いたりというのは、関係者全員にとってとてもつらい状況になる。
第二に、破損や情報漏えいによる賠償責任である。意図的でないにしても、うっかり設置中にパソコンを落としてしまったり、手順書を現地に置き忘れてしまったりという事が無いとも限らない。もちろんお客様との信頼関係でフォローする事がもっとも大切であるが、いざ損害を賠償するケースになった時に事前準備ができているのといないのとでは、リスク管理状況として大きく異なる。
第三に、業務上の怪我や事故に対する備えである。入院ともなれば費用も大きいし、機会損失も大きくなる。第一に挙げた自動車に限らず、業務上のリスクというのは仕事をする以上看過してはおけない。
ともあれ、「今まで上手くいっているから対策を考えない。」という事ではいけないということだ。細かいアクシデントで警笛が鳴っている今こそ、先手を打っていかなければならない。

「アサーション」とは、元々は「主張・断言」の意。転じて、相手を傷つける事無く自分の気持ちや考えを伝える事を指す。
我々ビジネスに携わる人間は受動的でいてはならない。自分の主張や判断というものを的確に相手に伝える事が要求されている。しかし、その伝え方というものが攻撃的で相手が傷ついてしまうようでは、いくら主張そのものが正当で有意義なものであったとしてもビジネスシーンでは自分の主張を活かす事ができない。
特に価値観が多様化した現在では「主張の内容」と同等以上に「主張の仕方」も重要になっている。もはや、上司・部下といった会社組織で結ばれた関係であったり、顧客・サービサーといった契約で結ばれた関係であったとしても、立場が上位の者が高圧的に要求しても相手にこちらの希望を十分に叶えてもらえるとは限らないのだ。
アサーションの理論では、コミュニケーションを大きく3つに分けて考える。アグレッシブ(攻撃的主張)、ノンアサーション(非主張)、そしてアサーションである。
いくら自分の意見が正しくとも、攻撃的な主張では通らないし、いくら相手に配慮しても自分の主張をいえないのでは仕事にならない。つまりビジネスマンはアサーティブな能力を必要とされているのだ。人によっては常にアグレッシブであったりノンアサーションであったりする事もあるが、多くの人は自分や相手の立場によってアサーティブに発言できない事もあるだろう。部下や下請業者に対してアグレッシブであれば、感謝の気持ちをもって改めるべきだし、上司やお客様に対してノンアサーションになってしまう人は、もっと相手を信用して素直に、率直に、丁寧に、必要な事を述べるべきだ。どんなにこちらがアサーティブに対応しても、受け入れられないこともある。それで相手が怒り出してしまったら、それはそれできちんと調整する。けして論破する必要はないのだし、自分の考えを完全に相手に理解してもらう必要も無い。
我々が重視しているコミュニケーション能力はこういったものだ。けして全てを受け入れてくれるイエスマンが欲しいわけでもなく、相手の立場や心情も理解できない論客を必要としているわけでもない。
特に若い人とある程度経験を積まれた方には不足している能力ではないだろうか。

2005年9月17日

《会社資金》

8月は月商が過去最高を更新する中、その月末に一瞬会社預金が底を突きかける。
ベンチャーには良くある、恐怖の瞬間である。
当社は開業時、私の前職で溜めた100万円を資本金に始めた会社である。開業準備で十数万が飛び、泣かず飛ばずの半年間で更に十数万が消え去った。大きな失敗をしなかったとはいえ、現在のこのビジネスを始めた当初では確か60万円台の資金余力であったはずだ。あの頃から変わっていない一つの事項は「資金の上限までしか成長余力が無い」ということである。
スタッフにはなるべく早く支払いたい(当時は半月毎に締めて締日翌日払い、現在は月末締め翌月10日払い)という、当社の方針は、私を含めてその日暮らしをしていた我々スタッフには外せない条件の一つだった。しかし、クライアントからの支払は30日・60日の後となっていて、その間の数十日は資金繰りを考えなければならない。ここが「資金の上限」までしか受注余力の無い我々小資本のアキレス腱となって今日まで至っている。
信用を積み重ねて、クライアントから仕事をたくさん貰えるようになってくると、「カネが無いので請けられない」というのは何とも残念な機会損失である。
積極的に請けて行き、資金を何とか都合してくるのは経営者たる私の大きな業務となった。苦しい姿を見せてはスタッフもお客様も離れてしまう。創業期から今まで水面下では私だけの闘いがあった。
大口のクライアントの支払が実は滞っていて、進むか手を引くか本気で悩んだこともあった。増資の資金の多くも未来の利益でなんとか埋めた。まさに毎月が限界までの勝負。モノポリーで云えば、「基本はレッドに家3軒オール」である。
そして8月。そう、去年も8月だった。本当に擦り切れるほどの擦れ擦れの勝負。会社の資金と自分個人の資金をギリギリまでつぎ込んで、最高売上を更新していく。そして思う。
「資金の壁さえなければ。」
開業時も、去年の今頃も。そして最近もこの時期には背中に冷ややかな汗を流すと共に、野望に突き動かされる。何件かの金融機関に声を欠け、それでも金融の厚い壁に阻まれる。
確かにベンチャー用の基金は創設された。昔に比べればきっと貸し渋りも少ないのだろう。だがそれでも思う。金融業会はアンフェアだ。彼らは結局事業を見ていない。無担保・無保証人を謳っている公共の創業者基金でさえ、最後の最後に来て「やはり第三者の保証人さんを立ててもらわないと」という話になる。
私は、創業者の代表経営者が会社の連帯保証人になるのは仕方が無いと思う。当社もそうであるが、創業期の会社であれば創業者の資金と会社の資金の垣根は非常に低い。当社のように個人資金を会社に全部突っ込むところもあれば、会社は赤字にして経営者だけ肥え太っているところもあろう。だから小規模であれば個人事業主とそうそう変わらないともいえる。
しかし、今でも金融機関が、包括根保障や第三者連帯保証を求めてくるのは、明らかに貸し手の怠慢であり足元を見た卑劣な融資であると私は考える。非道な包括根保障については今年から法的な保護ができてきたとはいえ、今回金融機関を回ってみて、根保証主義は変わっていないことを痛切に感じた。公庫ですら第三者に連帯保証人を立てさせるという審査無能力ぶりを未だに直そうとしていない。
私は実質包括根保証であれば会社の保証人になりたくないし、ましてや代表者である私以外の連帯保証人をつけてまで資金を借りようと思わない。気楽に「お父様かお母様に・・」と云ってくる融資担当者こそ恥を知ってほしい。私は自分とは関わりのない連帯保証人になるつもりは無いし、身内を含む誰かを連帯保証人に立てるつもりも無い。
私が望むのは、金融機関には、与信は貸出上限と利率で評価して欲しいという事だ。今回までの感覚では、私の回った金融機関から当社は評価されなかったが、私も金融機関を評価できなかった。しばらく当社の無借金経営は続きそうである。
さて、当社の資金余力は、およそ2年で60万強から450万。利益の積み上げでもこのペースを守るなら何とでもなる。しかし結果こそ上手くいかなかったものの、今回はどうしてもタネ金としての借入をしたいと思っていた。ここに書こうか悩んだが、当社のステークホルダーには知っておいて貰う必要があるだろう。
当社はおよそ1割から2割の金額を利益として一つの案件から抜いている。そしてその積み上げた利益で人を雇い、仕事を請け、拡大再生産している会社である。常に限界にチャレンジしているが、売上は当然月ごとに波があり、8月のように会社の余力を超えてしまうこともある。そうした場合、常に最大唯一の貸し手である、私の個人マネーを一時的に充当して資金不足を乗り切ってきた。そうやってなんとかここまで来れたのだが、この個人マネーを投入する自由度が今期以降著しく減ってしまう事になった。
原因は私のプライベートに起因している。
この出来事自体はめでたい事であるし、私人としてはタイミングも妥当で判断として間違っていないと思っているが、企業人としてはどんな理由があろうともここでの足踏みするというのは本当に残念である。残念だと思う。あと2年あれば。せめて1000万の余力を達成していれば。今回なんとかして、数百万の資金を借りる事ができれていれば。
しかし。残念ながら、一つの結論はでた。当社の資金需要に応えてくれるところは私を含め殆ど無くなる。私もこれからはどんぶりな資金繰りやギリギリの舵取りというものを赦されなくなる。良くも悪くも「変化」である。

経営をしていると、良くも悪くも個人単体であるよりも社会への影響が大きい。ことさら「社会責任」等を声高に叫ばなくても自然に、自分の会社はどのような社会との関係を築いていって、どのような社会を創って生きたいのか?というテーマを考えてしまうものである。
私は、「最小限の法を確実に守り、機会が均等であり、ルールで定められていない部分は皆が皆の優しさを信じる事のできる、共栄していく社会」が望ましいと思う。
シンプルに言えば、「リーガル・フェア・モラル」の社会だ。
この3つはどれが欠けても、ギスギスした過ごしにくい社会となる。一時期経営者の間では、「モラルか?インモラルか?ではない。リーガルか?イリーガルか?だ!」とグレーゾーンを法律武装して突っ走る傾向にあった。ほりえもんの立会外売買やそれ以降の第三者割り当て増資でも、違法でないことを良いことに利益を求めて突っ走った。
確かに違法かどうかは微妙な問題について、合法である制度を勉強し利用する事が悪いことだとは一概に云えない。とかく日本社会の経営が不勉強で癒着を基本としたアンフェアな社会であったことがそもそも悪かったのだろう。最近のモノ云う株主などもインモラルであるけれど、フェアな社会を築こうと法律をたてに従来の悪習をどんどん打ち破って世間から喝采を浴びている。
そして、重要度を考えても「リーガル・フェア・モラル」の順であると思う。まず違法であれば平等・道義で如何に筋が通ってみえてもそれは赦されない。また如何に和を持って内輪での助け合いの社会を目指しても、外部から見てフェアでなければ単なる癒着と捉えられても仕方ない。
そして、リーガルでフェアな社会下ではモラルを守って共栄できる会社・社会を創っていかなければならない。なぜならば、インモラルであれば当然規制する法律が厳しくなっていき、社会全体で適法であることが難しくなっていってしまうからだ。社会的にみんなで守れる法律というのは、小さく最低限であるべきだ。そのためには、法で囲われない部分はそれぞれが自主的にモラルをもって担保していくしかない。
さて、大きく「どんな社会を」を考えてみたが、実践するのは身近なところから始めていければそれでいい。まずは小さくとも自分の周りから。目標とはそういうものだ。