2005年4月5日

《自分史を語ろう。物覚がある頃の話。》

思い出してみる。
大学時代就職するときに「自己分析」なるものを試みた。
その際、記憶に残る昔から何をやってきたのか。そこから何を得てきたのか。
振り返ることによって、改めて「自分」というものを知覚する。
新しい一歩を踏み出そうとするとき、困難な壁にぶつかったとき、きっとそれは力になる。
記憶に残せる年齢になる前の記憶とは、余程強烈でしかも成長の過程で何度も振り返って思い出しているものとなる。
私の最古の記憶は初めて歩いたときのものだ。
小さい時に遊んだ積み木が今も残っていて、それを見るたびに思い出しているので記憶に残っているのだろう。
ちょうどその積み木は取っ手がついていて、所謂「つかまり歩き」に適している。それから手を離してよたよたと数歩。
それからはだいぶ時間が空いて、保育園に上がるまでは2・3シーンしか残っていない。どれも怪我がらみである。
滑り台から落ちて鼻をずりむいたり、アタマをぶつけて何針か縫ったり。今にして考えると、私も不注意だが母も不注意だと思う。
保育園に上がってからは、かなり記憶が定着している。時間割もわかるし、その頃歌った歌や、発表会の演技も覚えている。
私の通っていた保育園は家から遠く、必ず一箇所は大きな道路を越えなければならない。
あの頃私は、一人で家に歩いて帰るのが大きな野望の一つで、それを実行したことがある。
帰り道の事などは何も覚えていないので、きっとすんなりと帰れたのだろうが、それではこのイベントは記憶に残らないだろう。
記憶に残っているのは、終わった後のワンシーン。母親の鬼のような怒顔、これが保育園時代の野望達成の記憶として染み付いている。