2005年8月14日

《シュレディンガーの猫》

先月「タイムマネジメント」でも示したように管理すべきは「時間」であり、我々経営者はパラレルしていく起こりうる未来を意識的に判断して掴み取ったり、幸運に任せて流されたりしていくことになる。
時に私は、「あったかもしれない現実」、いわゆるパラレルワールドについて考える事がある(けして現在を後悔しているわけではないが・・)のだが、それでも今でも、観察できるまでわからない不確定な状態の間を走り回っている。
「シュレディンガーの猫」というパラドクスがある。テーマとしてはこんな感じだ。

箱の中に猫を入れて観測者から見えなくする。1時間の間に50%の確立で致死性のガスがでる。1時間の猫の状態をどう説明するか(生きているか死んでいるか)?

一つの解釈としては、観察するまでは全ては不確定であり、それまでは「生きている猫」と「死んだ猫」が量子的に重なり合った状態で存在し、生死を確認した時点で状態が収束する。というものである。
「確認した時点」が蓋を開けた時点なのか、ガスが出た瞬間なのか、といった定義の問題が新たにでてくるが、そもそも確認者が必要であれば、厳密には「意識」が何時発生するかを詰めねば正確性を担保できない。とりあえずは、確認者が自分であれば「状態が収束」した時点で確立は現実として一つとなる。
もう一つの解釈としては、「状態の収束が起こらない」とするものである。つまり確認者が「生きている猫」と「死んだ猫」を確認した時点から確認者も「生きている猫を確認した人」「死んだ猫を確認した人」に分岐して量子的重なり合いの状態を続ける、というものである。つまり現実は分岐された先で複数に分かれていくけれども、分岐先それぞれでは他の分岐先は見えない。
以前酒席でいつものように、「あったかもしれない自分」を語りながら「もしかしたら今ドラえもんを作っていたかもしれない。」という話をした時に、同席の友人から「それなら、もしかしたら作っている日向が、今現実にいるのかもしれない。」という返答が帰ってきて、その後このシュレディンガーの猫の話に及んだ。
なるほど、分岐先の自分から見れば他の分岐先は見えないのであれば、そういった分岐先も現実の一つとして折り重なっているかもしれない。それであればそもそも「ドラえもんがいる世界」もどこかで分岐されていて、折り重なった現実の一つともいえるだろう。
当面我々は分岐された先の一つの世界しか見れないのだが、現実が複数に折り重なるというのはエキサイティングな考え方だ。収束されるたった一つの状態が、過去から未来における唯一の現実だと考えていた自分にとって、夢の器が一つ広がった感じがした。