2005年1月16日

《精神論》

最近精神論についての記事を読んだので、自分なりに「精神論」について考えてみた。
「精神論」は「宗教観」に似ている。ある人にとってはアイデンティティの柱となっている事もあり、またある人には全く縁が無いものでもある。「気合だ!根性だ!」といって発奮するのであれば、その人によって有用な事は間違いないので、「どんな人にもその有用性は否定できないもの」なのだろう。宗教観も同様で、その人にとって大切な信仰であればその人にとって精神的に大いにプラスになるので、その有効性を他人が否定する事は出来ない。そして同時に、他人に押し付ける事のできないものでもある。
さて、ここまで述べてきた「精神論」とは、「気合だ!根性だ!」をベースにしたいわば自己啓発系の論理的要素の低い論議であったが、一歩進めて、モチベーションやコンセントレーションをコントロールする手法として捉えた場合はどうだろう。高い目標意識を持ち、自主的に考え、深い集中力を持って実行する事の出来る人間が、マシンのように一定の仕事を諾々と何も考えずに処理する人間よりも効率的であることは、誰にだって証明できるだろう。となれば、その手法を一般化する事ができれば、人にノウハウを伝達させる事もできる事になる。コミットメントをめぐる論議などは正にここに意義がある。そしてマネジメントの存在する意義もここにあるのである。つまり精神論はマネジメントできるとする発想である。
しかし、精神論の中でマネジメントに含むと危険な要素もある。一つは人間関係だ。リーダーシップの話でも触れたが、人間の魅力を管理する事は困難である。神業に近い。喜びや怒りという感情はコントロールしやすいが、好き、嫌いという感情はコントロールしがたいのだ。人の好悪まで管理できるというのは、奢りであろう。
それでもしかし、である。仕事をする上でモチベーションを高く持っている事、大事な事には集中する事等はビジネスマンの最低条件だ。当社を振り返って考えると、自分には今更管理する必要も気合入れて発奮する必要も無い。要は人なのだ。だからこそ、「気合だ!根性だ!」論では許されないのだ。だからマネジメントを語り、メンタルケアも含めた環境を作る。そして、好悪については当社が、あるいは私自身が、仕事をしてくれている人を好きになる事。これで相手から嫌われるようでは仕方が無いということだ。
人の心を動かすためには、きちんとした理論と信用を得るだけの人的魅力が必要なのだ。
「精神論」は少なくとも理論側を、可能であれば魅力まで説明しうる熟成された本物が必要なのだ。