2005年1月17日

《管鮑の交わり》

センター試験が終わったので、挑戦してみる。点数はさすがに現役よりもかなり衰えているので公表できないが、国語や英語といった語学については当時より今のほうが優れている。古文、漢文については昔からあまり勉強したという意識も無く普通に読む事が出来たし、今も当時と変わらず読む事が出来る。現代文は、もちろん意味は取れるのだが、試験には試験のマッチングルールが適応されているので、ルールとのシンクロ率によって成績は変わる。7割~9割位の誤差がいつもあって、これは現役時代から今まで変わらないようだ。受験の頃は、内容を吟味する余裕が無かったが、今のように俯瞰した状態で内容を見るととても面白い。
今回の漢文では、管鮑の交わりが出題された。斉の名宰相管仲が死に逝くときに、名君桓公から親友である鮑叔の人為を聞かれて親友の性格を述べる名シーンである。
史記の管晏列伝のくだりでは、司馬遷がとかく晏氏贔屓な面もあるのだが(晏氏なら晏嬰より晏弱のが私は好きである。)、管仲はとても冷たい人物に描かれている。その後の思想家から叩かれまくったのは、「倉廩実つれば礼節を知り、衣食足れば即ち栄辱を知る」に代表されるように、彼が徹底的な合理主義政治家で、二君に仕えたり清貧を否定したりすればこそだろう。確かに、中国の思想家・政治家にあるまじき人物である。一方鮑叔は清廉な人物で、管仲を推挙した後に彼は管仲の部下として働く。
そして、出題の名シーンである。「管仲が死んだ後、鮑叔を宰相にしたいのだがどうか?」と聞く桓公に管仲は応える。「鮑叔は不正を嫌うあまり、融通がききません。だから政治をする事は出来ません。」
自分を推挙した親友なのに・・である。
このあとこの作者は、親友の苦手な政治の舞台で親友の功績が傷つくことの無いように配慮した。としているが、単に友情と政治は別に考えていただけだろう。そしてそんな彼を誰よりも理解したのが鮑叔である。よく鮑叔はマナーの悪い(と中国では思われている)管仲の経済の才能を見抜いたり、友人としてつきあえたりしたものである。きっととてもイイヒトであったのだろう。
鮑叔の恩にも報いずやりたい放題の管仲も友人を評してこう云っている。
「私を生んでくれたのは父母であるが、私を真に理解してくれたのは鮑叔である」
本当の「管鮑の交わり」には、日本でよく使われるべたべたした友情物語とは一味違った面白さがある。

2005年1月16日

《精神論》

最近精神論についての記事を読んだので、自分なりに「精神論」について考えてみた。
「精神論」は「宗教観」に似ている。ある人にとってはアイデンティティの柱となっている事もあり、またある人には全く縁が無いものでもある。「気合だ!根性だ!」といって発奮するのであれば、その人によって有用な事は間違いないので、「どんな人にもその有用性は否定できないもの」なのだろう。宗教観も同様で、その人にとって大切な信仰であればその人にとって精神的に大いにプラスになるので、その有効性を他人が否定する事は出来ない。そして同時に、他人に押し付ける事のできないものでもある。
さて、ここまで述べてきた「精神論」とは、「気合だ!根性だ!」をベースにしたいわば自己啓発系の論理的要素の低い論議であったが、一歩進めて、モチベーションやコンセントレーションをコントロールする手法として捉えた場合はどうだろう。高い目標意識を持ち、自主的に考え、深い集中力を持って実行する事の出来る人間が、マシンのように一定の仕事を諾々と何も考えずに処理する人間よりも効率的であることは、誰にだって証明できるだろう。となれば、その手法を一般化する事ができれば、人にノウハウを伝達させる事もできる事になる。コミットメントをめぐる論議などは正にここに意義がある。そしてマネジメントの存在する意義もここにあるのである。つまり精神論はマネジメントできるとする発想である。
しかし、精神論の中でマネジメントに含むと危険な要素もある。一つは人間関係だ。リーダーシップの話でも触れたが、人間の魅力を管理する事は困難である。神業に近い。喜びや怒りという感情はコントロールしやすいが、好き、嫌いという感情はコントロールしがたいのだ。人の好悪まで管理できるというのは、奢りであろう。
それでもしかし、である。仕事をする上でモチベーションを高く持っている事、大事な事には集中する事等はビジネスマンの最低条件だ。当社を振り返って考えると、自分には今更管理する必要も気合入れて発奮する必要も無い。要は人なのだ。だからこそ、「気合だ!根性だ!」論では許されないのだ。だからマネジメントを語り、メンタルケアも含めた環境を作る。そして、好悪については当社が、あるいは私自身が、仕事をしてくれている人を好きになる事。これで相手から嫌われるようでは仕方が無いということだ。
人の心を動かすためには、きちんとした理論と信用を得るだけの人的魅力が必要なのだ。
「精神論」は少なくとも理論側を、可能であれば魅力まで説明しうる熟成された本物が必要なのだ。

2005年1月15日

《セキュリティ》

我々の業界の中では、セキュリティの話題を避けて通れない。
最近は、機密情報の取扱について非常に各社ナーバスになっているのもあるし、当社もなるべく危機回避できるように細かいところまで気をつけてはいる。
しかしながら前職と時も思ったが、セキュリティを固める為に端末の用途を限定する、という発想はどうであろうか。オウム事件の後、東京の駅ではゴミ箱な無くなった。ある国では、国家的なファイアウォールをしいて、他の国へのインターネットアクセスを全て遮断している。発想は鎖国と変わらない。外には危険があふれているので全く使えないようにしようという考えである。
こんな時代であるから、セキュリティに無策ではもういられない。しかし、オールオアナッシングで全てを遮断する方策を取る会社に未来の反映はありえない。ある社長が云った。「最強のセキュリティは仕事をしない事だ。」貴方はそれで良いのか?

2005年1月14日

《多忙》

忙しい時ほど仕事が入る。
いい仕事をする人は例外なく忙しそうにしている。そうかといって余裕が無いようみは見えない。仕事というものは、自分ひとりでは出来ないので、人や会社の協力を得る必要がある。一見、仕事量が平等になるように案件を振り分けていく事が効率的に感じられるが、実は違うのだ。大切な案件は、忙しそうにしている人に頼む。これが成功の秘訣である。
この事は仕事を貰う場合も同じで、忙しい時ほど多くの仕事が入ってくる。うれしい悲鳴ではあるが、やはりこなし切れずに断るのも心苦しいし、開いてる日もあるのだからそちらにずらせないか、とも思う。
しかし、多忙であろうとも一つ一つやっていく事に変わりは無い。忙しいからといって余裕がなさそうになってしまう様では、当社のウツワもたかが知れていると思われてしまうだろう。多忙な時ほど丁寧に、基本どおりに、である。

数あるマジシャンの名言で、最も艶っぽく憧れる台詞といえば、マックス・マリニのこの台詞である。
私がこの言葉を知ったのは、マジック界で有名なマジェイアの蔵言集( http://plaza.harmonix.ne.jp/~k-miwa/magic/singen/si_malini.html )からであるが、この説明のエピソードを引用しよう。
ある貴族の家でマリニは、目隠しをした上で、テーブルにばら撒いたカードにナイフを突き立ててカード当てを行った。「ブラインドフォールド・カード・スタビング」と呼ばれる著名なマジックである。
観客は喝采したが、その貴族は貴重な家具を傷つけられてマリニにクレームをつける。その時のマリニの返答がこれだ。
「マリニの付けた傷が在る」事がテーブルの価値を一層高める事を彼は知っていたのだ。
これは、プロフェッショナルとしての心構えとして。また、自分の持つブランドというものの価値について、現在でも非常に参考になる。
しかし、だ。本当にマジシャンのカッコよさをよく表しているエピソードである。