2005年4月1日

《成りあがり》

世間では、特にお金持ちの世界では「成りあがり」でセレブになった人は最初からセレブに生まれた人よりも一段下に見られる。
上流社会のソサエティなどはまさにその典型で、生まれや交友関係などを重視しているのだが、私はこうした考え方を心底軽蔑している。
お金を自ら稼ぎ出した人間と、最初から持っていた人間の価値を比較してどちらが上かと聞かれれば稼ぎ出した人間に決まっている。
そもそも会社、法人というものを息子が二代目で引き継ぐという考え方が法人の存在意義から考えれば不自然であるし、親が築きあげた地盤で恥ずかしげも無く生きているのは自立・自尊の精神に欠けていて一人前ととてもいえない。
一方成り上がった人は、本当にドロにまみれて築き上げた自分の居場所であり、勝ち取った報酬であり、心底惚れる人の生き様がそこにはある。
大切なのは、上流にはびこるそこでしか通用しない常識やマナーなのではなく、刻み込まれた男のしわであったり、ささくれた指であったり、そうしたものの上に立つ成功であろう。
私にとってはいつであろうと「成り上がり」こそ、尊敬すべき金持ちである。

2005年3月31日

《報・連・相》

ホウレンソウは、社会人としての基礎能力のひとつとして挙げられるのだが、当社、というよりもうちの業界ではちょっと異なる。
ひとつは階層が複雑で誰にどこまで何を報告・相談できるかを見極める必要があり、もうひとつは一定の範囲では自己完結能力を求められるということである。
仕事にトラブルは付き物で、解決のためにはなるべく中間に人を通さないで直接担当者に聞いて正確な情報を手に入れる必要がある。
一方、些細なことを直接のクライアントを飛ばして、元請に尋ねたためにクライアントに迷惑がかかるということも頻繁に起こりうる。
ヘルプデスクが設定されている場合であれば問題はないのだが、そうでない場合はどうするか。
基本は近いところから、つまりうちのスタッフであれば私から聞いていけば間違いないが、当社とじかに取引している会社までは信頼関係ができているので相談可である。
私に上がってくるのは事後でもかまわない。
基本はミスったときの対応だけだ。ミスはしてもかまわない。現場を知らないクライアントが目くじらを立てる場合もあるが当社の評判等を気にして抱え込む必要は全然無い。
トラブルのフォローをするために会社はあるのだし、中間に位置する会社もマージンを抜いているのだ。
大丈夫。責任は会社が持つ。失敗しても良いから思いっきり仕事してほしい。

2005年3月30日

《肉体的ハンデ》

私や当社にとって、スタッフが病気や怪我などのハンデキャップを背負っていることは消してマイナス材料とは考えていない。
ハンデキャップなどは、その人の一個性という以上の意味などは存在しないと思っている。
病気自慢をするつもりはさらさらないのだが、私自身去年から「バセドウ病」という奇病にかかっている。
病気の説明は次のサイトに譲るとして「http://www.hahoo.jp/~koujyousen/basedou/p1.htm」現在は薬で抑えているので通常の生活には支障が無い。
去年の今頃、発病当時は病院でもなんの病気か原因がわからず、立てなくなったり、激ヤセしたりしていたので、その頃の私を見ている人であれば思い当たる事もあると思う。
その頃から、まわりのスタッフには非常に助けられているのだが、「会社に迷惑をかけている」とは思わないようにしている。
病気や怪我、あるいは出産などで一時戦線を離れることがあったとしても、それをカバーできるのが会社組織というものであるだろうし、構成員が五体満足で100%何時でも会社のために尽くすような前提では、むしろ社会正義に反しているだろう。
私は小さい頃から「皆勤賞」を学校が薦めているのに反対だった。病気であれば治せば良いし、感染するものであれば、むしろ休ませるべきだ。
どうように会社がクライアントのためということで、構成員の体を壊すほど酷使するのは反対である。
経営者の責任感は、クライアントの要望を満たすためのみに発揮されるのではなく、会社を構成する全ての要素に配慮して発揮されるべきものであると考える。

2005年3月29日

《育成》

人を育てたいと思う。
なぜだろう。今思うと、進学・就職・企業、どこの一瞬を切り取っても、「もし今の自分があの時の自分を指導することができたら」と考えるとやってあげたいことが山ほどある。
それは、後悔とは違う。今までの支援者が物足りないわけでもない。
それでも、教えてあげたいことが限りなくある。そして今後何かをするときも、未来の自分がいてくれればこの上なく頼りになることは疑い得ない。
人を育てたいと思う。
自分が悩んできたことや、解決してきたことは、汎用が効くように一般化する癖がついている。
いつかこの経験が役に立つように。いつかその知識を応用することが出来るように。
私が幸せに感じる瞬間を分類すると、「何かを伝えることが出来たとき」は必ず上位に入るだろう。
そして同様に、何かを受け取ったときも人生意気に感じるものだ。
それはきっと、自分も育てられたいときっと思っているからだろう。

大往生という言葉がある。自分の人生を生き切って、そして逝った人の事だ。
誰もが平等に訪れる死の瞬間に、自分はどれだけ満足していけるのだろう。
いつもと同じように、いつもしている何かをしているのかな。
何か変化を求めて、新しいことに挑戦しているのかな。
大好きな誰かに、無念さを伝えているのかな。
人生最後の瞬間に誇りを持って往けるように、毎日を精一杯過ごしている。